2017年9月17日日曜日

『人狼ゲーム -クレイジー・フォックス』-根本的なジレンマ

 『人狼ゲーム』シリーズは、どうも2作目の『ビースト・サイド』の評判が高いらしいのだが、行きつけのTSUTAYAになく、3作目の『クレイジー・フォックス』を借りてきた。
 『ファイナル・ディスティネーション』シリーズと同じく、観始めることに対するハードルが低いから、借りてきた数枚のうち、どうも先に観てしまう。

 さて1作目の『人狼ゲーム』はなかなか悪くなかった。それに比べるとこの3作目はまるで食い足りない出来だった。サスペンスにしろ頭脳戦にしろ、人間ドラマにしろ、全体に薄味。無名新人俳優たちの演技は総じて悪くなかったから、そのあたりの演出はいいのだが、やはり脚本の工夫が足りない。
 最もサスペンスを盛り上げるはずの、「誰が3人目の人狼なのか」という謎も、当の「人狼」がシルエットで登場して、別の人物に「お前かよ」と言わせておいて、さてそこから引っ張るのかと思ったら、すぐあとのシーンで正体を明かしてしまう。
 「人狼ゲーム」自体の経験は相変わらずないので、どのあたりが実際のゲームの勘所なのかはわからない。しかもそれを現実世界に移植した場合におこる変数の高次元化を、どこまで論理的に整合させているかは、正直頭が追いつけない。
 だが『サクラダリセット』がやっているようには緻密な論理構成をしていなさそうなのはわかる。
 例えば、各自がカードを見るときに「他人に見せても知らせてもいけない」というルールがあったって、現実に同じ部屋で一斉に見たら、横から見えてしまったり、思わず口に出したりしてしまうとかいう事態が当然起こるはずだ。それが起きないことになっている。それを防ぐ手だてが主催者側から図られているという説明もない。
 あるいは夜、人狼が村人を殺しに行く時には大騒ぎをしているのだから、当然みんなに正体が知れてしまうはずなのだが、それもないことになっている。人狼が村人を殺すったって、ゲームとして「殺した」ことになっているというのと違って実際に人狼女子が村人男子を殺すことができるものか。それを可能にする設定をしないのはやはり物語の手抜きだ。

 ゲームとしての「人狼ゲーム」は、参加者が進んで参加しているから、メンバーはルールを把握したうえで、ルールを守ろうという動機付けが強く、しかも架空の設定で展開してるのだからルールも守りやすい。
 ところが映画ではルールも知らないメンバーが、進んで参加しているわけでもない、現実の空間で展開するゲームだから、ルールの破綻は容易いはずだ。それなのに、それは起こらないことになっている。つまりゲームのルールを現実に適用するためのハードルが考慮されていないのだ。
 これがこの映画(原作も含めて)の根本的なジレンマだ。ゲームが現実に起こったとすると、そこに参加した人間にとってそれがどれほど過酷なものになるか、というのがドラマの動因になるはずなのに、それを現実的に引き起こすために解決しなければならない問題を無いことにしているから、結局、肝心のゲームを、いかにも作り物の「ゲーム」としてしか展開させられていないのである。
 そうしたジレンマを本気で解消しようというほどの意志は、この制作者たちにはないのだった。1作目について書いた時の期待は、結局かなえられず、それでも「期待」を抱けた1作目に比べて、失望に終わった本作にはがっかりせざるをえないのだった。

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