2017年9月13日水曜日

「羅生門」とはどんな小説か 7 -不自然な心理をどう読むか

承前 6「心理の推移」を追う意味

 「老婆の論理」に「勇気が生まれてきた」根拠を求める従来の「羅生門」理解では、「心理の推移」を追うことは無意味どころか、そうした作品把握自体の障害となるはずである。一方で「心理の推移」には、主題の把握に関わる重要な意味があるはずである。「心理の推移」が「勇気が生まれてきた」に決着する、どのような機制を考えなければならないか。
 具体的な授業展開を追ってみる。まず生徒に、下人の心理の読み取れる表現をマークさせる。最初に登場するのは①「Sentimentalisme」である。以下細かい状況説明は省くが、②「下人の考えは、何度も同じ道を低回したあげく」「勇気が出ずにいた」から「迷い・逡巡」→③「息を殺しながら」「たかをくくっていた。それが」「ただの者ではない」「恐る恐る」から「慎重・不審・緊張」→④「六分の恐怖と四分の好奇心」→⑤「老婆に対する激しい憎悪」「あらゆる悪に対する反感」→⑥「勇気」→⑦「安らかな得意と満足」→⑧「失望」+「前の憎悪」+「冷ややかな侮蔑」→⑨「冷然」→⑩「勇気」が抽出できる。
 ②や③は適宜言い換えやまとめをして確認する。また⑥の「勇気」は該当の本文中にはない語だが、後から「さっきこの門の上へ上がって、この老婆を捕らえたときの勇気」と語られる「勇気」を時間順の位置においたものである。
 この「心理の推移」を追う過程で、どんな考察がなされるべきか。
 ④の「恐怖・好奇心」までは不審な点はない。状況から自然に生じていることが納得される心理である。
 だが、既に⑤の「憎悪」に、読者はついていけないものを感ずる。不自然である。この不自然さは、その「憎悪」が理解できないとか共感できないとかいうより、「激しい」「松の木切れのように、勢いよく燃え上がり出していた」という強調が「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。」という作者による客観的な分析と(それこそ激しく)衝突するからである。充分に合理性があるというのなら激しさの強調は論理的に納得される。だが訳が分からないはずだと言いつつ、その「憎悪」が不自然なほど過剰に「激しい」と形容されているのである。これはどうかしている。
 かててくわえてそれが「あらゆる悪に対する反感」と抽象化されたうえで、分からないにもかかわらず「それだけですでに許すべからざる悪」と決めつけられている。焦点はぼやかされ、一般化されているにもかかわらず、短絡的に断定される。
 この、念入りに表現された不自然さは何を意味しているか。
 この不自然さは、下人の心に生じた「憎悪」が読者にとって共感しにくいという意味でも不自然だが、それだけではない。老婆の行為を「悪」と決めつける理屈は、死体の損壊を、死者への冒涜のように感じて憤っているのだろうという見当はつく。だがそれに素直に納得することはできない。そんなことを感じていられる状況ではなかったはずだ。下人は生きるか死ぬかという状況ではなかったか。羅生門は死者が投げ捨てられるのが日常化するほど荒れ果てた場所ではなかったか。そんな状況で今更死人の髪の毛を抜くことに、突如「憎悪」が燃え上がってしまうというのは当然のことなんだろうか、そんな当惑を読者に引き起こす。だからこそここに「極限状況」などない、と言えるのだが、作者はそうした不自然さを指摘することなく、その「憎悪」について、それをどのようなものだと考えるべきかの情報を読者に提示してみせる。
 認識に合理性がないこと。対象が一般化されていること。短絡的に決めつけていること。にもかかわらずその情動が過剰であること。
 こうした情報をどのように受け取るべきかがにわかにわかりにくいことが、この部分を「不自然」と感じさせているのである。下人の心理が不自然である以上に、それを不自然に描こうとする作者の意図がわからないことこそ「不自然」なのである。
 この部分の下人に生じた「憎悪」について、複数の指導書からそれを説明した語句を列挙してみる。「感覚的・情緒的・感情的・衝動的・直観的・主観的」である。作者は下人の「憎悪」をそのようなものと印象づけようとしているのだ、というのが従来の理解である。こうした理解は「老婆の論理」を得た下人が引剥をするという行為に及ぶ必然性を説明するところまで、そのままつながっていく。悪を憎悪することと悪を選ぶことは、ともに「感覚的・情緒的・感情的・衝動的・直観的・主観的」なのである。
 こうした解釈には同意できない。この部分の「憎悪」と、最後の行為の選択は質の違うものだという感触がある。では、この「憎悪」の描写から、読者は何を読み取るべきなのだろうか。この「憎悪」の描写から、「行為の必然性」を導く機制はいかにして見出されるか。

 同様に⑦の「安らかな得意と満足」の脳天気さも腑に落ちない。そんな場合か、と思う。これは到底「極限状況」に置かれた者の心理ではない。
 だが問題は、⑤の「憎悪」で言及された「なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くか」という疑問がまるで解決していないのにこの「満足」が訪れて、「憎悪」が忘れ去られるという点である。というか、なぜ「老婆が死人の髪の毛を抜くか」は「下人には、…わからなかった」にもかかわらず、そもそも問題視されてもいないのである。
 ⑦「安らかな得意と満足」については、それが、事態の解決とかかわりのない、というより事態が何なのかという把握に関係のない、という点を確認しておこう。

 ⑧「失望」ももちろん不自然だが、ここでは、下人が何を望んでいたことを示しているのかを確認しておこう。「平凡」であることに「失望」しているのだから、下人は「非凡」な答えを期待していたことになる。これはなぜか、というより、これは何を示しているか。

 以上のような「心理の推移」を追う授業過程は、どこの授業でも行われているのだろうが、問題は、それが「行為の必然性」につながっていないという点である。だが、上に見たような念入りに書かれた不自然は、それがこの小説にとって意味あることを示している。そこに、「行為の必然性」、つまりはこの小説の主題にかかわる論理を見出さなければならない。

次節 8「勇気」を持てなかったのはなぜか

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