2017年9月9日土曜日

「羅生門」とはどんな小説か 5 -「老婆の論理」の論理的薄弱さ

承前 4「極限状況」の嘘

 先に、下人の行為は老婆の論理によって可能になった、と書いた。だが、可能になることとそれをすることの必然性とは違う。可能になりさえすればそれをするというのなら、可能になった者がそれをすることの必然性は問うまでもない。だがその動因となるべき「極限状況」を認めることができないのだから、可能になったからといって行為の必然性はないのである。
 それでもやはり、引剥をするという下人の行為には、それをなぜ敢えてするかという必然性が、この小説をどのようなものとして読むか、つまり小説の「主題」と密接に関わる論理があると見なさなければならないだろうという確信はある。次のように書く作者がその「必然性」を充分に意識していないとは思えない。
これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
「これ」とは老婆の長広舌であり「ある勇気」とは「盗人になる」勇気である。下人の裡には確かにこのとき、盗人になる勇気が生まれてきている(そう書いてある)。だが、勇気が生まれさえすれば当然それを実行しようとするだけの動機は、実感に乏しい「極限状況」によっては支えられない。
 そして物語の中盤では、奇妙な心理の推移が描かれた末に、物語の結末では、いわば思い出したかのように「勇気が生まれてきた」からといって引剥をするのである。これを、下人にとっての必然性とともに、作者にとっての必然性、つまりこの小説をどんな小説として描こうとしているか、という疑問として考察すべきである。だから問題は、なぜ「勇気が生まれてきた」かである。
 こうした疑問が従来の「羅生門」論において看過されているのは、それが自明なことだと思われているからである。上の引用にあるように、老婆の話を聞いたから、である。老婆の語る論理が、すなわち下人の心に「ある勇気」を生んでいるのである。そして、勇気が生まれさえすればそれを実行するだけの動機は「極限状況」によって保証されている。論理的整合には何ら疑問はない。
 だがこの論理は、すでに述べたように状況の「極限」性が薄弱であることから破綻している。それだけではない。よく考えてみると、老婆の語る理屈が勇気を生んでいるという因果関係にも、実は納得できるほどの根拠はないように思える。
 老婆の語る、いわゆる「悪の肯定(容認)の論理」は次のようなものだ。
せねば、飢え死にをするじゃて、しかたがなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたがないことを、よく知っていたこの女は、おおかたわしのすることも大目に見てくれるであろ。
だがこれは、冒頭で下人が羅生門の下で考えていた次のような逡巡とどう違うのか。
「(生きるために手段を選ばないと)すれば」のかたをつけるために、当然、そのあとに来るべき「盗人になるよりほかにしかたがない。」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
老婆の認識は、それを聞く以前から下人が理解していた状況認識と変わらない。「老婆の論理」とは、ただそれを「しかたがない」「大目に見てくれる」と開き直っているというだけである。他人が開き直っているのを見て、自分もかまわないと思ったというだけのことが、どうして「新たに老婆の論理を得た」ことになるのか。
 念のため。もちろん「老婆の論理」にはもう一つ、「悪人に対しては悪が許される」という論理が含まれている。だが「悪人に対しては」などという限定をしてしまえば、すべての人間を対象にした盗みをはじめとする悪を肯定する論理になり得ないことは明白だし、相手を選ぶのなら、避けられない「極限状況」という設定とも論理的に矛盾する。
 問題となる「老婆の論理」とは「極限状況」におかれて為す悪は許される、というものだ。この「緊急避難」の論理は、最初から下人に認識されている(「しかたがない」という文言は下人の思考にすでに見える)。わかっていてできないだけだ。なおかつ「極限状況」は描かれていない。
 「極限状況」ばかりか「老婆の論理」にも、「行為の必然性」を支えるだけの論理的強度はない。

 だがそれでは「これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。」はどういうことになるか。ここからは、やはりどうみても老婆の語る理屈が下人の心に勇気を生んだのだ、という因果関係が読みとれるように見える。
これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。
という一節を、誰もが
老婆の話を聞いて、下人の心には盗人になる勇気が生まれてきた。
と言い換えてしまう。そしてこの言い換えられた一文は、「羅生門」の粗筋を語る時に必ず登場する。つまりぎりぎりまで細部をそぎ落とした粗筋においても、「勇気が生まれてきた」ことは決して落とせない展開上の要素なのである(もちろん「盗人になる決意をした」などという言い換えには既に解釈が含まれている)。なぜならこの一節こそ「行為の必然性」を支えていると考えられているからであり、「行為の必然性」こそこの小説の主題を支えているからだ。
 そしてそこに必ず「老婆の話を聞いて」という冠が被さる。粗筋を語る時には、物語の展開の必然性が露呈するから、「勇気が生まれてきた」の原因を語らないと落ち着きが悪いのである。
 粗筋とはすなわち物語の把握である。その小説をそのようなものとして捉えたことのあらわれが粗筋である。すなわち「勇気が生まれてきた」のは「老婆の話を聞いた」からだ、という因果関係を我々はそこに見ているのである。なぜ「勇気が生まれてきた」のか、という問いは最初から看過されている。
 では「老婆の論理」が「行為の必然性」を支える強度を持たない、つまりそこに因果関係があると認めないとすると、「これを聞いているうちに、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。」という明白な一文をどう考えればいいか。
 「これを聞いているうちに」とは必ずしも「これを聞いて」ではない(まして「これを聞いたから」ではない)。これは因果ではなく、単に時間経過を示しているだけなのだ。
 つまり「勇気が生まれて」くる動因は老婆が長台詞を語り出す前の展開中にあるのであり、長広舌が始まる時点で「行為の必然性」は既に準備されているのである。

 次節 6「心理の推移」を追う意味

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