2017年9月5日火曜日

「羅生門」とはどんな小説か 3 -「行為の必然性」の謎

承前 2 教材としての価値、「主題」を設定する必要性

 「羅生門」がどんな小説なのか、何を言っている小説なのかがわからないと感ずる最大のポイントは、物語の最後で下人がなぜ老婆の着物を剥ぎ取ったかがわからないという点である。
 この「わからない」は、下人がそんなことをした心理がわからないということでもあるが、同時に、作者が下人にそれをさせることによって、何を言いたいのかがわからない、ということでもある。この行為の必然性を、物語の論理―つまり「主題」―として語れることが「羅生門」を理解することであるように思える。
 といって、常に登場人物の特定の行為の必然性こそ物語の「主題」だというわけではない。事件ではなく、淡々とした日常の描写こそを目的とした小説はあるだろうし、物語を流れる時間や空間の感触を描出することが目的の小説もあろう。あるいは行為における必然性の欠如こそが「実存」であるなどと言いたい小説もあるかもしれない。
 だが「羅生門」がそうした小説だとは思えない。下人が「きっと、そうか」と言って老婆の着物を剥ぎ取るには、何か納得できる必然性がありそうである。冒頭に、行為に対する迷いが提示され、結末で行為の実行があるという構成は、そこに必然性を見出さないまま読み終えることはできない力を読者にもたらしている。にもかかわらず、その「必然性」がわからない。
 それに比べてこの小説のもとになっている『今昔物語』の一編「城門登上層見死人盗人語」には、そのような感触はない。老婆の着物を剥ぎ取る男は最初から「盗人」と形容されているし、行為に対する迷いもない。彼は当然のように行為する。だからそもそもそこに「主題」の感触を見出すこともできない。となると、なぜそんな話を伝えたいのか(それが「主題」だ)がわからない、ということになるのだが、「城門登上層見死人盗人語」の主題は、盗人の行為にあるのではなく、羅城門の上層には死体がいっぱいあった、という事実そのものを読者に伝えることなのである。
 一方の「羅生門」では、明らかに下人の行為の意味にこそ主題を読み取るべきなのだろうと思われる。
 問題は、この、「行為の必然性」と「主題」の論理的な連続である。なぜ剥ぎ取ったかを納得することは、すなわちこの小説をどのような小説として読むかということである。それが筆者にはわからない。
 もちろん、引剥という行為の必然性は、序盤に置かれた「飢え死にをするか盗人になるか」という問題に決着をつけたということだと理解することはできる。そして迷いを抜けて行為することができたのは、老婆の論理を得たからだ。そしてここから導かれる主題は、「極限状況における悪の肯定」「悪を選ぶエゴイズム」「悪を選ばざるをえない人間の弱さ」「人間存在そのものの悪」…などということになろうか。伝統的な「羅生門」の主題である。
 だがそれがどうしたというのか。そのように読む「羅生門」は何か面白い小説なのか。そういう小説を読むという体験は、何か国語学習に資するところがあるのか。
 別にそうした主題が不道徳的だとか倫理に反するなどと言うつもりはない。倫理に反することが描かれることが読者に感銘を与えることはあるだろう。あるいは教室で道徳に反する小説を扱ってはならないとも思わない。読解の過程でそのような主題が抽出されるなら、それも文学の可能性として教室で享受してもいい。
 だが、単にそうした読み方で「羅生門」が作品としてあるいは教材として価値あるものとは思えないのである。そのように「行為の必然性」を措定して、そこから導かれる「主題」をそのように措定し、さてそれが面白い小説だとは思えない。面白さのわからない小説の「主題」が信じられない。そんな小説をどうして書きたいのか、納得できないからだ。となると結局、教材としての価値もわからない。
 さらに、わからないという前にまず、そのようには読めない。それは、上記の論が前提する「極限状況」が、そもそもこの小説には描かれてはいないからである。

次節 4「極限状況」の嘘

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