2017年9月1日金曜日

「羅生門」とはどんな小説か 1 -ブログ的前置き

 これから数回、授業で扱う「羅生門」について論ずる。
 呆れたことだ。今更「羅生門」について語ることがあるのか。これだけ多くの目にさらされ、論じ尽くされているこの小説について、まだ何か言うか。
 我ながらそう思わないでもないが、これまでさんざん書いた「こころ」についてだって、同じくらい日本人のほとんどが読んでいると思われるのに、みんなそうは読んでいないと思うから、言うのだ。
 いやもちろんどこかで誰かが同じことを言ってるのかもしれないが、少なくともとりあえず広く人々の耳目に触れる場所にはそうした見解がごろごろと転がっているわけではない。「こころ」であれば、語られる紋切り型は相変わらず「エゴイズム」だ。それは「私」の目からそう見えているに過ぎないのに。あるいは「恋か友情か」だ。そんなこと「こころ」のどこにも書いてないのに。
 「羅生門」も同じように、どこを見ても「極限状況」だ。どうしてそんな大仰なお題目にみんな納得しているのだ。あれのどこに「極限状況」が描かれているのだ。そしてまたしてもこちらも「エゴイズム」である。そんなわかりきったことが露呈する小説を、どうして有り難がって読む価値があると思えるのだ。
 そう、さらにわからないのは、これが教材として価値ある小説だと、誰もが疑わないらしいことだ(まあ実際には疑っている教師も多いんだろうけど、誰もあからさまには言わない)。それどころか、これをすばらしい教材だと本気で考えているという発言を直に聞いたことも少なくない。
 もうこれを高校一年生に読ませることはお約束になっていて、どこの出版社も教科書から外すわけにはいかなくなっている「国民」教材として、今更その教材価値が問われない。
 どうしてなのだろう。みんな、あの小説が何だと思っているのか。どうして高校生に読ませる価値があると思うのか。
 なのにそのことを納得させてくれる「羅生門」論にはお目にかかったことがない。
 面白い「羅生門」論はある。だが、これが教材として優れていることを納得できたことはない。作品として面白くないというのはまあ個人的な好みだから殊更に言い立てなくとも良いが、少なくとも、これが何を言っている小説なのか、誰か納得できるように教えてほしい。それがわからないのに、教室でどう読めというのか。読解の果てにどこに行けるという見通しもないのに、どうして教材として価値あるものだと信じられるのか。

 そんなことを言いながら書き出すのは、最近、ひょんなことから、この小説についての「納得」が不意に訪れたからだ。最初に読んだ高校一年生の時から40年近く経って。そして商売柄、30年来、さんざん読み返したというのに。今更。
 誰も(目につくところでは)言っていないと思うので、書く。
 題名はとりあえず「『羅生門』とはどんな小説か-なぜ『勇気が生まれてきた』のか」ということにしておく。 

 次節 2 教材としての価値、「主題」を設定する必要性

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