2015年8月27日木曜日

『誰も知らない』(監督:是枝裕和)

 うまくタイミングが訪れたという感じで、ようやく。
 『そして父になる』が現実の子供取り違え事件をもとにしているように、これは実際に起きたネグレクト事件に基づいて作られている。親に置き去りにされた4人の子供が、マンションの一室で4人で生きていく姿を、2時間20分で描く。12歳の長男を演じた柳楽優弥がカンヌ映画祭で史上最年少の主演男優賞を受賞したことは大きな話題になったから、もう15年近く気になってはいたのだ。
 観ながら、『歩いても 歩いても』で驚嘆したような圧倒的なうまさはない、と思った。だがいかんせん、忘れがたい映画であることは否定しようもない。岩井俊二の『リリィ・シュシュのすべて』などと同じような印象である。きっと大嫌いな人もいるが、心を捉えられてしまう人もいる、といった、痛みを伴わずには観られない映画。

 是枝監督作品ということで最初から期待があるから、ハードルは高い。そこからすれば不満はある。編集が無駄に間延びしているように思えるし、何より救いがない。
 安易な救いを描くことは、それだけ作品を軽いものにしてしまう。ではその悲惨が永久に続くというのか? 悲劇的な結末であれ、いずれ事態の変化が訪れることは確実なのだから、そうした展開への予感だけでも描かずに、強い悲劇の後に、緩慢な、永続的な悲劇に戻ったかのような展開に戻ったところで作品世界を終わらせるというこの映画の結末にどういう納得が得られるのかは、やはりわからない。
 元になった事件は、この映画に描かれるよりずっと強い、陰惨な悲劇の後に、とりあえずは悲劇の終了があったのである(むろんそれはまた別の緩慢な悲劇のはじまりであったのかもしれないが)。
 曖昧な書き方はやめよう。実際の事件では、映画における主人公にあたる長男と、その友人の中学生の虐待によって幼児が死亡したそうである(ネット情報を安易に信ずることはできない、のかもしれない。この「現実」は「事実」ではないかもしれない)。これは、こうした事態そのものの帰結としての強い必然性がある展開である。
 だが、映画では二女の死因は椅子からの転落である。むろんそこから死亡という最悪の展開を回避できなかったのは、やはり事態の招く必然ではある。子供たちだけで手をこまねいている事態が、二女を救えなかったのだとは言える。
 だが直接の死因が、子供たちだけの生活が招いたものではないことと、二女の遺体を羽田空港近くの草原に埋めるという展開の感傷性が、悲劇の質を曖昧にしている。現実には幼児の死は虐待死であり、遺体は発見を恐れて隠蔽されたのである。それはこうした子供置き去りという事態そのものの招いた悲劇である。救いはない。
 それなのに映画では、最後の場面で戻っていく、変わらない悲劇的事態が、二女の「埋葬」の儀式とともにまるで甘美なDistopiaのようにさえ感じられてしまう。
 それでいいのか?
 そしてもちろん、子供たちが然るべき機関に保護されたからこそ、こうした事実が明るみに出たのであり、子供たちだけで生き続ける日々は、現実には終わりを告げたのである。

 そもそも、ここに「いじめ」に遭っているらしい女子高生をからめることは物語的な必然を感じるものの、だとすればそれですら事態がこのように変わらないことに、なおのこと苛立ってしまう。『王様ゲーム』『生贄のジレンマ』などで感じた苛立ちである。バカすぎるだろう、いくらなんでも、というウンザリ感である。
 だがもちろん、こうしたことは高い割合で起こりうること、展開として自然なことでなくてもいいのだとはいえる。普通では考えられないほど愚かな人々の振る舞いを、わざわざ描く物語があってもいい。『シンプル・プラン』なども、そうした、うんざりするような愚かな展開が、アメリカという大国の荒廃を感じさせて巧みだった。
 だとしたら、この女子高生を登場させることの意味はなんなのだろう。救われない者同士の共感が「救い」のように感じられる、先の見えない共同体のありようがともすれと甘美に見えるとすれば、その感傷性はやはり不健全なのではないだろうか。

 映画的なうまさは、あえてドキュメンタリーのように見せる手法を採ることによって抑制しているのかもしれない。もちろん、ちびたクレヨンが絶望的な閉塞感を感じさせる、とか、やはり是枝監督の映画作家としての手腕は垣間見えるのだが。
 それにしてもあの間延びした編集はなんなのだろう。
 だがあの長さにつきあうことが、この子供たちの置かれた状況の閉塞感を観客がいくらかなりと共有するために必要なのだともいえる。
 だからこそこれは間違いなく忘れがたい作品なのだが。

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