2015年7月12日日曜日

『ラスト・ワールド(原題『The Philosophers』)』

 またしても「TSUTAYAだけ!」。終末物に「バーチャル討論会」とかいう謎の煽り文句に惹かれて。
 始まってみるとなぜか舞台がジャカルタだし、終末物だというのに原題は「哲学者」だし、どういうこと? 登場人物たちはアメリカ人らしいけど?
 なんとインドネシア映画なのだ(見終わってから調べてみると)。となればもう前回の『FIN』同様、アメリカ映画を観るのと違って、CGの粗さにも許容水準がすっかり下がっている(逆にアメリカ映画は映像がどれほどよくできていようが、もうそれがどうした、という気がしてそれ自体をプラスに評価する気になれなくなっている)。

 で、結論を言えば大傑作だった。もうオールタイムで何十作かを選べばそこに加えてもいいと思えるほど満足したのだった。
 物語は、高校の哲学の授業で、核戦争で人類が滅びようとする時、核シェルターで生き延びさせる10人を選ぶとしたらどうする? という思考実験をする、という話。思考実験の中身が劇中劇としてCG合成のSF劇として描かれる。教室の場面がいきなりそこに接続する時の目眩のような感覚も面白いが、都合3回試行される思考実験の劇中劇の意味合いが現実の授業の人間関係と重なり合っていく構成が見事。これは映像とか演出とか演技とかではなく、とにかく脚本のできが素晴らしいのだ。
 この、映画内現実と劇中劇がミルフィーユになっている構成といえば、昨日観たばかりの鴻上尚史の「ハッシャ・バイ」が偶然にもそれで、娘が演出しているので観に行ったところ大感動して帰ってきたばかりだというに、妙な符合だ。
 そしてどちらも、ちゃんとテーマが「わかる」と感じられたところも満足感を得られた大きな要因だ。
 「ハッシャ・バイ」では、簡潔に言うと母親への愛憎、ということになるだろう。自立するために母親の支配から逃れなければならないことと、母親への愛情の間に生ずる葛藤をどう乗り越えるかが物語に方向性を与えている。
 「ラスト・ワールド」では、合理的判断よりも情緒的な判断の方が正しい可能性について、あるいは実学よりも芸術の方が生きる上で必要な場合がある、といったようなところか。これは佐野洋子の『嘘ばっか』の中の大好きな一編「ありときりぎりす」ではないか。きりぎりすの奏でる音楽が最初、雑音としか感じられなかったアリが、ある時、その音楽によって世界が輝くように感じられる場面が感動的なのだが、『ラスト・ワールド』でも終末において音楽の果たす役割が感動的に描かれたある場面では、あやうく泣かされそうになった。
 そして前回の『FIN』との決定的な違いは、ちゃんと物語が落ちているところだ。しかも実に見事な着地だ。伏線は回収されるし、テーマが強調されつつハッピーエンドに終わる。なおかつアンハッピー・エンドの結末までも「思考実験」的リフレインの手法で描かれもし、だからこそこれはハッピーエンドなのだと腑に落ちる。素晴らしい。

 ところでまたしてもネット上の評価は芳しくない。
 「逃した魚は大きいぞ」の批判は実に尤もだと思いつつ、大いなる満足が上回っている。
 「365日で365本 映画を観るブログ」は丁寧な感想を綴って大いに好感がもてる。
 とまれ監督・脚本のジョン・ハドルズはここに記録しておこう。
 

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