2015年6月26日金曜日

『生贄のジレンマ』(監督:金子修介)

 『人狼ゲーム』『王様ゲーム』に続いて、「ソリッド・シチュエーション・スリラー」「バトルロワイヤル」「生き残りゲーム」枠で。
 そういえば深作欣二『バトルロワイヤル』も、かなり以前ではあるが観てる。タランティーノはじめ、外国でも評価が高い映画版は、やはり原作の10分の1も面白いとは感じられなかったが、それでも今思えば、映画的な面白さには満ちていたと思う。こういうのが好きじゃないと映画ファンとはいえないんだろう、とは思う。だが原作の面白さも感動もほんのわずかしか感じられなかったのは、やはり私が「小説」的な面白さに感応しやすいということなんだろう。

 ところで『生贄のジレンマ』である。どこかで原作の書評を見て、面白そうだとは思っていた。映画の監督も金子修介だし、上・中・下という長丁場もむしろ「我慢してつきあったが故の感動(というねじくれた楽しみ)」を感じられるんじゃなかろうかという期待もあって、3巻まとめてレンタルしてきた。
 最初の設定紹介からしばらくは面白くなりそうな期待があった。そう、「生き残りゲーム」ものは「タイムリープ」もの同様、物語を作りたい素人がアイデアを盛り込むには恰好の器なのだ。この設定・ルールで生き残りをそれぞれが考えるとしたら…と考えるだけで、無限にドラマが生まれてきそうだ。
 だが物語が進行するにつれ、これはだめだという感じが強くなってくる。みんな頭が悪すぎる。「生き残るためにしそうなこと」をしている気配があるのは、主要登場人物の周辺だけで、そのいくつかのチャレンジが潰えると、それ以上のアイデアが出てこない。時間が経つにつれて絶望が支配して、誰も何もしなくなる、という展開はあってもいい。だがその前に、時間が経つほどにみんながそれぞれアイデアを思いついて次々と試す、という展開がまず描かれるべきではないか。
 登場人物がみんな頭が悪すぎるというのは、つまり作り手の頭が悪すぎるということだ。あまりにも最初から思いつきそうないくつかの行動以外に、描かれていない場所で描かれていない関係者がそれぞれに生きて、時間を過ごしている、という感触がない。
 これはそこに生ずるであろうドラマの描き方についても同様である。ゲームとしての可能性がまるで考察されていないように、それに巻き込まれた人間達が過ごす時間の中で生きる「ドラマ」が、まるでありがちな学芸会レベルである。しかもやはり主要登場人物の周辺に生ずるそれしか描かれない。どんな端役の人物にだって、誠実に焦点をあてれば息をのむドラマが起こっているはずなのに。こんな極限状態ならば。
 結局、脚本と演出の問題なのだ。脚本は「このルールを生きる」ことの可能性をぎりぎりまで考察し、アイデアを出し尽くすべきだし、演出は「このルールを生きる」ことをぎりぎりまでリアルに想像すべきである。そうすればこんなひどいことになるわけがない。役者陣の演技には大いに失望させられたが、これはつまり演出の問題である。これほどの極限状況におかれた者達がどれほどの振幅で感情を動かすか、その狂気も、(期待することの難しい希望かもしれない)崇高さも、監督がリアルに想像できていないから、若い役者達にそれを要求できないのだ。
 金子修介は学生時代に講演を聴いたことがあり、そのときに制作中だった『1999年の夏休み』はその後観て、印象深い映画の一本だ。『毎日が夏休み』も大好きだし、『平成ガメラ』シリーズも面白かった。その彼にしてこの無惨な作品はどういうわけだろう。
 凡作ができてしまうのはやむをえない。なんであれ「面白さ」を生み出すのは容易ではなかろう。だが、大人が何百人も集まって、こんな惨状を止められないのは、日本の映画制作の問題なのだろうと漠然と思わざるをえない。上記のような高い志をもっていなくてさえ、こんなにつっこみどころ満載な展開、描写はいくらなんでも放置してはいけないんじゃないかという当たり前の良識をもった人間が、なぜ責任ある立場にいないのか。穴の中に落ちた者達が屋上で目覚める必然性はあるのか、とか、死んだ人間の中で、なぜ彼女だけが都合良く生き返るのか、とか、死んでいないのになぜその前に死んだとしか思えない描写を入れるのか、とか、中学生でも不審に思うはずの馬鹿な演出をなぜこれでもかと並べてしまうのか。

 小説やマンガには、最近、生徒に借りて読んで驚嘆した「鳥籠ノ番(つがい)」(陽東太郎)などのように、ルールから派生しうるドラマを、ゲーム的にもドラマ的にも満足できるレベルで展開した作品がいくつもある。「カイジ」「ライアー・ゲーム」「DEATH NOTE」などの堂々たる作品群は、人気、知名度ともに人口に膾炙しているといっていい。だがこれらの名作も、おそらく映画にしてしまえばその面白さは保てないだろうと思うから、映画は観ない。
 上記のような小説やマンガは、少人数(一人)で考え抜く、という作業を経ているのだろうと思う。これが、映画は時間や費用の制限が、「考える」ことよりも優先されてしまうという制作上の事情によって、上のような惨状を生じさせるのだろう。
 だがせめて、脚本を複数人のチームによって練るといった、たぶんゲーム業界やハリウッド映画・ディズニー映画ではひろく行われているであろう方法を、なぜ日本映画は採用しないのか。一人で書かれる脚本があってもいい。だが、この手のシチュエーションものは多面的な考察が命である。せめて「みんなで考える」ことでもしてレベルを保証して、小説のような低コストのジャンルならば「仕方ない」とも思える「無惨」さをなんとか回避してほしいと、他人事ながら思ってしまう。

 それにしても三部作で4時間あまりである。これも自分の責任とはいえ。

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