2015年4月7日火曜日

「読み比べ」というメソッド 9 ~「夢十夜」と「『見る』」

 漱石は「現代文」における「こころ」の採録率が圧倒的だが、「私の個人主義」や「国語総合」の「夢十夜」も、複数の教科書が採録している。第一学習社「高等学校 国語総合」も「夢十夜」の「第一夜」と「第六夜」を採っている(昔は「第三夜」が採録されていることもあったが、今はどこの教科書も「第一夜」と「第六夜」である)。

 まず枕に「第六夜」を読む。ここではあえて「解釈」をする。「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」とはどういうことかを問うのである。
 授業で小説を読むことが「解釈」を「教える」ことだ、などと思っているわけでは毛頭ない。生徒自身が「解釈」しようとするのなら、それは意味あることである。だが一般に、小説を読むことが、いわゆる「解釈」することだと考えているわけでさえない。これは後に続く授業過程の伏線である。
 「解釈」への誘導として、明治という時代がどういう時代だったかを考えさせ、そこでの「自分」と運慶の違いを考えさせる。さらに、次の問いを投げかける。
ここに登場する「運慶」は、「芸術家」か「職人」か?
先の、「対比」を設定して文中の表現をどちらに位置づけるかを問う発問と同様、複数の選択肢を提示して生徒に選択させる、という発問は、思考を活性化させるために有効だ。人間の思考は、物事の対比において、差異線をなぞるようにしか成立しないからである。もちろん結論がどちらかを決定しようとしているわけではない。どちらが適切だろうか、と考えることで、文中から根拠となるべき情報を読み取ろうとするのである。それが思考を活性化させる。
  こんな発問を思いついたのは、「第六夜」がしばしば芸術論として語られることに違和感を覚えたからである。運慶の仕事ぶりについて見物の若い男が語る、
なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あのとおりの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。
という表現は、確かにある種の「芸術」論のようにも読める。だがむしろこのように「芸術」を捉えるのは、芸術創造についての神秘思想、神話だと思う。
 それよりむしろ、この表現が意味しているのは、運慶の仕事ぶりが、熟練の職人の技だということではないのか?
 筆者の印象を言えば、この運慶は時代から突出するような形で出現する天才芸術家ではなく、むしろ伝統を形づくる職人集団の先頭に位置する者として描かれていると考えるべきだと思う。運慶と同じように仁王を彫れない理由を、「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」からだと「自分」は考える。運慶の仕事ぶりが、芸術家としての創作だとしたら「明治の木には」という限定に何の意味があるのか。そうではなく、それを伝統的な職人技の発現としてのルーチン・ワークだと考えることによって「明治の木には」という形容が納得されるのではないだろうか。これはつまるところ、「第六夜」の主題をどう捉えるかという問題である。
 もちろん、芸術家と職人を区別すること自体が近代的な発想ではある。芸術作品と工芸品に区別を付ける必要もないのかもしれない。しかし明治に生きている運慶と仁王を掘り出せない「自分」との違いは、芸術家であるか否かという点にあるのか、職人か否かにあるのか、という選択的な問いは、「第六夜」をどのような物語として読むかに大きな影響を及ぼすように筆者には思える。
 だから「明治という時代はどういう時代だったか」を考えさせることも必須だ。そのうえで、運慶を芸術家として捉えることを否定するわけではないが、どちらかといえば私には、運慶は職人として描かれているように思える、と生徒には言う。それは「第六夜」の主題を「西洋文明の流入によって、それ以前の文化や伝統が失われつつある『明治』という時代」とでもいったものとして捉えるからだ、と説明する。
 といってもちろん、ここでの「学習内容」としてこれを「教える」ことが授業の意義だと考えているわけではない。これは「第六夜」の「正解」なのではなく、この小説についての、私の納得のありようなのだ、と言っておくのである。これは次につながる「枕」である。

 さて、問題の「第一夜」が、「第六夜」のように、どのような意味であれ、腑に落ちる「解釈」の可能な物語だとは思っていない。この物語は解釈を目的として「使う」つもりではないのだが、考えたり話し合ったりすることに前向きな生徒達であれば、「第一夜」についても、結局この結末は何を意味している? などと聞いてみたくもなる。
  それが「解釈」であるうちは、まだ「枕」である。だが、しばし「枕」で遊ぼう。
 生徒に、次のような問いを投げかけてみる。
途中で数えることを放棄した自分は、どうして「百年がまだ来ない」と思ったり、百年経っていたことに気づいたりしたのか?
物語の因果関係が追える生徒は、「百年経ったらきっと会いに来ると言った女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ」と説明できる。これを裏返せば、「百年経ったことに気づいた」というのはつまり、百合を女の再来と認めたということに他ならない。
 だが、なぜ「自分」は百合が女の生まれ変わりであることに気づいたのか。もちろんそれは、擬人化された百合の描写によって、読者にはあっさりと看過されてしまう疑問である。その百合は女の生まれ変わりだと言われれば、疑問を差し挟む余地はない。こうした奇妙な納得のありようは、紛れもない「夢」の感触として我々にも覚えがある。
 だが、にもかかわらず、本文を正確に読むと百合が咲いたからではなく、「暁の星」が瞬いているのを見て、「自分」は百年が経っていたことに気づいた、と書いてあるのである。これは何を意味するか?
 自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
 「百年はもう来ていたんだな。」とこのとき初めて気がついた。
つまり、百合を女の生まれ変わりだと認識することによって、百年の経過に気づくのではないのである。こうした論理は転倒している。逆だ。「百年はもう来ていたんだな」と気づくことによって、百合が女の生まれ変わりであったことが認識されているのである。
  この部分について考察させるために「暁」の意味を生徒に確認しておく。そのうえでこの描写の意味することを問う。
 「暁の星がたった一つ瞬いていた」という描写が意味するものは「夜明け」である。これは、この瞬間に夜明けが近づいたことに気づいた、つまり、夢から覚める自覚が生じた、ということを意味しているのではないだろうか。それまでいくつも通り過ぎていく「赤い日」は、それが昼間であることを意味しているような印象をまったく感じさせない。昼に対応する夜も描かれていない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けは来ておらず、「自分」が「暁の星」を見た瞬間にそこまでの「百年」が一夜の夢として完結してしまうのである。
 つまり、「百年」とは夜明け、すなわち夢の終わりまでの期間を意味しているのであり、そこから遡って、女の約束が成就した、つまり百合こそが女の生まれ変わりだったのだ、という論理的帰結(というよりむしろ捏造)が生じているのである。
 この、後から遡って創作されたにもかかわらず、だからこそ強い納得を生じさせる真実の感触こそ、この小説がもつ「夢」の手触りである。

 管見に拠ればこうした解釈は一般的なものではないはずである(とりあえず目にしたことがない)。生徒にはもちろんこうした解釈のあれこれを語って聞かせるだけで、それを「教える」つもりはない。つい寄り道をしてしまったが、やはりこれは「枕」である。ここでの学習課題は、「第一夜」における「描写」の問題について考えさせることである。

 「第一夜」の文体の特徴は、過剰な叙景である。
 意識して読んでみると「第一夜」には異様とも言える頻度で、形容詞や形容動詞や副詞によって、映像が修飾されている。またそもそも、読者に映像を喚起させる描写が、これもまた、しつこいほどに念入りに配置されているのである。冒頭の一段落で具体的に見てみる。
 腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。
  斜体部分は、取り除いて前後をつめてしまっても、ストーリーの把握の上で支障がないばかりか、日本語としても不自然ではない。傍線部もまた、除いてもストーリーの把握には支障のない描写である。こうした、前後をつめても読める形容や映像の描写に傍線をひかせる。
 試みに、取り除いて、つめてみよう。
  枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。

 上に示したとおり、「取り除いてもかまわない」かどうかというのは、実は線引きの難しい問題で、この部分がそれに該当する「正解」であるかどうかを厳密に判定はできない(上の斜体と傍線も厳密な区別ではない)。だが、考えさせることで、この小説の文体の特徴を実感する手がかりにはなる。時間をおいて生徒に発表させ、「なるほど」とか「そうかな?」などと検討していく。
  試みにこうした形容や映像的描写を全文から取り除いてみるとわかるが、原文を半分ほどに詰めてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、原文とほとんどかわらないような印象があるはずだ。逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える密度で盛り込まれているのである。

 さて、ここまでの過程は、次の課題を提示するための前振りである。
 「夢十夜」を取り上げたここまでの授業過程を、「『見る』」と比べよ、というのである。特に後半で茂木が論じていることと、ここまで「夢十夜」の授業で考えてきたことの間には、何か似たような点がないか? と問いかける。
  既に明らかである。後半の「絵画を見る」ことと、ここでの「小説を読む」ことが相似形なのである。
 我々がものを「見る」ということは、それを「要約」することなのだ、というのが茂木の主張の半分である。それが爪切りや小銭入れであるとか「モナリザ」であると認識することを茂木は「要約」と表現しているが、これは同時に、キャンバス上の絵の具のパターンを女の肖像と「解釈」することである。
 小説を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「要約」(「第一夜」で試みたように)したり「解釈」(「第六夜」で試みたように)したりする。それをしなければ、読んだ小説の文言は、茂木の描写してみせたホテルの一室のあれこれと同じく、「掛け流」されてしまうだろう。
 しかし、「モナリザ」を見る経験がそうした「要約」「解釈」といった「意味づけ」でしかないのだと茂木は言っているわけではない。後半で確認されているのはむしろ「要約」の際に切り捨てられていく「圧倒的な豊穣」もまた「モナリザ」を見るという経験の反面なのだということである。つまり「第一夜」を読むという経験は、それがどんな物語であったのかという把握(「要約」)と同時に、心の表面を流れていく「源泉掛け流しの温泉」の「圧倒的な豊穣」、つまりあの過剰な叙景によって形象され、感触される物語の中の時空間そのものを体験することに他ならないのである。

 したがって、茂木の言っているのが、指導書の言うように「絵画という芸術の奥深さ」などでないことも明らかである。それは「絵画」といった限定に留まらない、我々の認識全般についての秘密なのである。

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