2015年4月19日日曜日

『見えないほどの遠くの空を』2 ~テーマ 

承前

 もう一つは、この映画の語ろうとする「テーマ」についてである。
 そう、この映画はあからさまに「テーマ」を語る。映画どころか、監督がツイッターで語っている。しかも何本もの連続ツイートで、喋る喋る。いいのか、監督が自作についてこんなに饒舌で? これはどうみても地雷ではないのか?
 『見えないほどの遠くの空を』では、世界不況が深刻化し、グローバリゼイションが進み、情報が世界を埋め尽くす中、遙かかなたを目指すということは可能なのか、というテーマを赤裸々に語りたいと思ったのである。
『見えないほどの遠くの空を』の主人公は、絶望をある種のやすらぎと思い定めて<ここで>生きるのか。あくまでも未来を<遠くを>目指すのかで逡巡している。そんな古典的なテーマを描きたかった。
主人公が大学の映画サークルで作ろうとした『ここにいるだけ』は、「絶望をある種のやすらぎと思い定めて<ここで>生きる」というメッセージをのせた映画だ。それに対して反対していたヒロインが語るのは「あくまでも未来を<遠くを>目指す」べきという主張である。ヒロインは、幽霊になってまで主人公の前に現れて、そうした主張を繰り返す。
 こうしたテーマの対立は、なんだかとても懐かしい。70年代的だと言ってもいい(60年代的?)。学生運動に象徴されるような理想主義と、三無主義に象徴されるような現実主義。ある時期まではどうみても「立派」な理想主義が幅をきかせていたのが、それに対するカウンターとしての現実主義が、それこそ文字通りのリアリティを持って若者の共感を勝ち得るようになったときの感触は、何となく子供心に感じていたような気がする。
 それはそのまま次のミレニアムまで主流であり続けて、だから主人公は『ここにいるだけ』を撮ろうとしている。そうした認識が優勢であり続けることの理由はわかる。社会が複雑になればなるほど、社会に対する無力感は増すばかりであり、そうなれば「ここ」がいいのだと言うしかバランスはとれない。
 その中で「遠く」を目指すというテーマは新鮮、というより反動的だ。ただそれはかつてのような「理想主義」ではなく、劇中では「パンク」と表現されていた。ヒロインの言うところの「もっとめちゃくちゃでいいのに」だ。
 そういえば日常を指向する四畳半フォークと破壊を指向するパンクが同じく70年代に台頭したことは、それぞれ同じように「理想主義」への、別方向の反動だったのだろうか。

 さて、こうしたテーマの提出に対して私が最初に連想したのは、樹村みのりの1974年の短編「贈り物」だった。劇中で語られる「ここにいるだけ」のプロットは、まるで「贈り物」なのだった。
 あの人が残したのはそうした切符だった。もちろんそれは天国いきの切符ではない。あの人からわたちたちに手わたされた時、それは意味をかえてしまった。
 あの人が残したのは、夢を抱いたままこの世界につなぎとめられて生きねばならないことへの切符だった。
監督の榎本憲男の歳から考えて、樹村みのりも「贈り物」も、知っている可能性は充分ある。そして、そうだとすると、彼は70年代から引きずってきたであろうそうしたテーマへの現時点での解答として、あえて「天国」を目指すと宣言しているのだ。
 カウンターはいつも新鮮だ。差異こそ情報なのだから、反対側に移動した時に境界を超える瞬間は、精神に刺激を与えてくれる。夏の冷房も冬の暖房もそうした快感だし、オバマ大統領の「Change」も、政治家がよく口にするマニフェスト、「改革」も、中身が何だかわからなくても、何だか良いことのようなイメージだけがある。
 『見えないほどの遠くの空を』がこうしたテーマを語るのも、そうした反動が、ともかくも魅力的に見えているということではないのか?
 だが、それを表現するのに、会社を辞めるというのはどうなの?
 主人公は大学を卒業後、映像制作の会社に入って、クライアントの依頼に従って不本意な作品制作をしている。そこで「幽霊」に出会って映画のテーマとなる「見えないほどの遠くの空を」目指し続けるべきだという主張を聞かされ、その後、会社を退職する。
 この展開を見ながら、はからずもつい最近「MOVIEラボ」で岩井俊二がしていた話を思い出してしまった。岩井俊二も同様に映像制作会社で、クライアントの要求に従う「仕事」をしながら、徐々に自分の造りたいものを実現させていったというのだ。
 それができないこの映画の主人公に、どんな「遠く」を目指すことが可能だというのか? 見当もつかない。どんな希望も見出せない。
 もちろんそうした認識は映画の中でも、友人の口から表明されてはいる。曰く「インドにでも行くつもりか?」。「インドに行く」が「遠くを目指す」ことへの揶揄だとしても、にもかかわらず、この主人公はバイトをして金を貯めて、アメリカくらいには行きそうである。それは「インドに行く」ことと大同小異ではないのか?
 
 そもそも、最初に主人公の語る「ここにいるだけ」が、まるで樹村みのりの「贈り物」もどきでありながら、やはりそれが「擬き」にすぎないところが、カウンターのテーマを説得力の欠けたものにしている。
 「ここにいるだけ」のラストで、劇中の主人公は、ヒロインに向かって
けれどこれからは、お前と一緒に、小さくても確かなものの中に幸せを見つけようと思うんだ。それができたら勝ったようなものさ。
と語って、ヒロインの肯定を待つ。監督の「ここにいるだけ」はこの台詞を肯定する意図を持って作られようとしていた。それにヒロインが異を唱えるのだ。そこから、あくまで「遠く」を目指すべき、というこの映画のテーマが語られるのだが、その前に、待て、なんだこの安っぽい台詞は。「勝ったようなものさ」って、何事だ、このチャチい言葉遣いは。
 この台詞が「贈り物」の「夢を抱いたままこの世界につなぎとめられて生きねばならない」の緊張した美しさに対峙しうるはずもない。「贈り物」の語っている生きる姿勢は、裏側に「浅間山荘」の狂気を湛えた日常に生きることのぎりぎりの決意なのだ。
 もちろん、この映画の最終的な姿勢が「勝ったようなものさ」を否定するところにあるのは承知している。だが、否定するつもりだから最初から安っぽくていいのだと監督(兼脚本)が考えているとすれば大勘違いだ。バランスするカウンターは、強ければ強いほど互いを高め合う。安い台詞を否定しても、こちらが軽くなるばかりだ。
 だから結局ヒロインの語る「見えないほどの遠くの空」も、J-Popの「ここではないどこか、今ではないいつか」を連想させてしまう。あまりに空疎なこのフレーズに比べれば「今ここで生きる」の方がまだしも健全な気がしてしまうのだ(そういえば神田沙也加の曲に、この定番フレーズに「だがそれはどこなんだろう」という突っ込みを入れている歌詞があって、ちょっと感心したことがある)。

 以上、もやもやとした観捨てておけない感じを語ろうとして、どうも批判ばかりを並べてしまったが、それでもこういう映画に対する基本姿勢は、「観捨てておけない」である。どうも気になる。こういうのはやはり一種の愛情と言うべきなんだろう。

 ところで、出ている役者をみんな「無名」と表現したが、渡辺大知は最近複数回テレビで見たし、主演の森岡龍が、再放送している「あまちゃん」に、主人公・アキの父親役・尾見としのりの若い頃の役で出ていたことを知って、なんだかこうしてひそかに世界はつながっていくのか、と妙な感慨を抱いたり。

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