2015年2月19日木曜日

『そして父になる』1 あの結末はどちらを意味しているか

 是枝裕和の作品を最初に観たのは『誰も知らない』がカンヌ映画祭で話題になった2004年からずっと後、2012年のテレビドラマの『ゴーイング・マイ・ホーム』だった。最初の一部分を観ただけで、その台詞回しも演出も、画面がフィルム的な質感になっているのは差し引いても、凡百のテレビドラマとはまるで違うことは明らかで、充分に観るに値するものであると即座に感じた。とはいえ連続ドラマとしてずっとワクワクと楽しみにしていたとは言い難くて、予約録画したものも結構溜めてしまったりもしたが、最後までそのうまさに感心させられ続けた。
 そして去年『歩いても 歩いても』にまたしてもやられて、すっかり是枝監督の評価は最高レベルで定まった。脚本と編集も本人がしていることといい、作品がこのレベルで並ぶことといい、岩井俊二とまではいわないが、すごい映画作家がいるものだと、このあとまだ観ていない作品を観るのが楽しみだと思っていた。
 さて、第66回カンヌ国際映画祭、審査員賞の『そして父になる』である。『歩いても 歩いても』も、主演がともに阿部寛という以上に、なんだか『ゴーイング・マイ・ホーム』に似ているぞと思ったが、今度もまたデジャブだ。三作とも主人公が「りょうた」で、父親役は『ゴーイング・マイ・ホーム』と同じ夏八木勲だった。主人公と父親の確執も、どれも似たような設定になっている。樹木希林も『歩いても』と『そして』に共通している。そういえば『歩いても』でも、阿部寛と、再婚した妻の連れ子の「血のつながらない親子」がテーマの一つになっていたが、『そして』はそれが主要なテーマになっている。
 もちろんニュースなどで事前に予備知識は入ってしまっている。6歳まで育てた子供が、新生児のうちに病院で取り違えられていたことがわかったという設定のドラマであることは最初からわかっている。スポットなどで福山が「6年間はパパだったんだよ。できそこないだったけど、パパだったんだよ」とか言ってるシーンは繰り返し見ている。スピルバーグがえらく気に入って、ハリウッドでリメイクするというのもニュースで見た。リリー・フランキーの演技が高く評価されているとも聞いた。

 なるほど佳い映画だった。螺旋階段を吹き抜けから俯瞰するカットや、川の中程に鎮座する大岩をバックに福山と子役が話をするカットや、アーケードが大きく覆い被さる商店街とアーケードから外れた古い商店の佇まいなど、映画として良い画をしっかと画面に収めているし、役者たちの演技も(とりわけ子役も)不足なく演出されている。リリー・フランキーが福山を殴るシーン(スピルバーグが絶賛したという)の微妙な空気も実に良かった。
 そして無論、脚本も実に良い。テーマを作品として仕上げるために必要なアイデアを充分に盛りこむバランスの良さはさすが、と感心させられる。こことここが感動ポイント、という仕掛けもちゃんとある。
 それでも、作品としては『歩いても 歩いても』ほどの「凄さ」は感じなかった。これは不満ではない。満足している。だが予想を超えるほどの特別な何かは感じなかった。これはいささか期待のハードルが高いから仕方がないのだ。
 だが、考えさせられてしまった。無論、取り違えられていた子供を元通りに取り替えるか否か、言い換えれば、親子とは血のつながりか一緒に過ごしてきた時間か、という作品の主要なテーマについては考えないでいられるわけがない。その選択の難しさこそがこの作品の肝であることは間違いないのだし、それを難しいと感じさせるだけ、そのバランスには細心の注意が払われている。当然取り替えるよなあ、とか、今まで通りがいいに決まっている、とかいった安易な選択を誘導するようには描かれていない。その上で、二組の夫婦は子供を、本来の血縁に従って交換するという選択をして、その困難にそれなりに誠実に立ち向かう(とりわけ主人公の福山が)。

 だが、「考えさせられた」ポイントはそこではない。映画のテーマ自体を自分の問題として「考えさせられた」ということとはちょっと違うのだ。
 事前の予備知識からは、この映画のテーマは「血のつながりよりも一緒に過ごした時間が『家族』を作るのだ」という「家族観」なのだと思っていた。テレビCMで語られる「血のつながりか、愛した時間か。つきつけられる選択」というコピーとともに流れる映画の一場面、福山雅治の「6年間はパパだったんだよ」という台詞は当然そういう文脈で解釈することになる。だから、つまるところ結局、それまで育ててきた子供を育てるという選択に結末する映画なのだろうと思っていた。
 だが、エンドロールが始まったところで、あれっと思わされた。これはそんなに方向性のはっきりした結末ではないのではないか?
 確かに上記「6年間は…」の台詞の後、福山雅治演ずる野々宮良多と、それまで育ててきた子供、慶多が抱き合う。だがその後で、慶多が野々宮家に帰ったことを示すようなイメージカットを置いたりせず、リリー・フランキー演ずる斎木家に両家族が一緒に入っていくところで映画は終わっている。つまり慶多が野々宮家に戻ることは明確には描かれていないのである。となると、そのまま斎木家に残るという可能性は消去されたわけではない。これは、物語のこの後の帰趨を敢えて描かないことで、映画が、この選択に明確な結論を出すよう結末をつけないという意志の表明ではないだろうか。つまり筆者には、映画は、敢えてどちらの選択が正しいのだとも観客を誘導しないようにふるまっているように見えたのだった。
 だが、直截その場面が描かれていないからといって、映画のエンディングより後の展開がそこまでの物語の論理を無視してどう転んでもいいというわけではない。当然、そこまでに描かれた物語の論理に従って、映画の後も展開するのだろうと考えるべきである。とすると慶多は当然、野々宮家に戻ることになると考えるべきなのだろうか? 「子供が元の家に帰る」という結末だと当然のように考えてしまうことには、本当に相応の妥当性があるのだろうか?
 気になってネットであれこれ論評を読んでみると、どうやら大勢はやはりこの結末を「元の家に帰る」ことになったのだと受け取っているようである(もちろん、この結末は観る者に判断を任せるものだと受け取っている人もいる)。
 そう考えたい理由はわかる。映画の中で慶多は「野々宮慶多」として描かれる場面の比重が圧倒的に高く、観客は主人公である福山の野々宮家で育った慶多に、より大きく感情移入してしまうからである。慶多と良多の親子関係の復活こそ、あるべき姿であるように観客には感じられる。
 さらに、多くのサイトで「子供の気持ちが大切」というような言い方をする人も多い。二人の子供はそれぞれに新しい家庭に適応しようとしつつも、やはり元の父母を恋い慕っている。その姿はいかにも哀れで、そうなれば元通りにしてあげたいと考えるのが人情だ。
 観客がそういう方向性に誘導されているというだけでなく、劇中に明らかにそうした方向性を指示しているように解釈できるシーンがある。
 先述のテレビ・スポット「6年間は…」のシーン、福山と慶多の会話は、植え込みを挟んだ二本の道路を二人が並行して歩きながら植え込み越しに交わされるのだが、やがて二本の道が合流するところで二人が抱き合う。これは一見したところ、斎木家と野々宮家に分かれていた二人が再び合流する、つまり慶多を野々宮家に連れ戻すことを映像的に表しているのだと考えるのが、正しい映画的読解力のようにも思える。
 さらに上記シーンで、野々宮が慶多に「ミッションなんかもう終わりだ」と言う。これは斎木家の子供として過ごすことを「大人になるためのミッション(任務)」と慶多に言い聞かせていたことを受けているのだから、「斎木家での生活=ミッション」を「終わり」にするということは、つまり慶多を野々宮家に連れ戻すことを宣言していることになる。
 そして前述のコピー「血のつながりか、愛した時間か」は、言うまでもなく後者こそ本当の家族の証だと言っていることは疑いえない。となれば、慶多が野々宮家に戻るのがこの結末の後の展開としては自然な想像であると考えるのももっともである。
 にもかかわらずやはり、ラストシーンはどちらかに決着をつけないように描いているのだと筆者には感じられた。同時に、個人的には子供を交換するという選択の方に一票を投じたい、と思った。
 なぜか?

 長くなりそうなので一旦投稿。

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