2014年9月7日日曜日

続 週末 ~「塩一トンの読書」

 昨日の記事は、今週の平日のことを書ききれてはおらず、今日にまで続いてしまうのだが、それでも今日もまた書ききれない。今日は今日で、息子の文化祭に行ったことやら、アニメ「ハイキュー!!」が毎週毎週あまりに素晴らしいこととか、「おやじの背中」の井上由美子はつまらなかったことなど、書き留めておきたいことがあるのに、それよりもまず昨日の続きを書いておかねばならない。ブログを放置してしまうことがあるとしたら、書くことがないのではなく、書きたいことを書ききれずに流れてしまう日々への焦燥感、喪失感、徒労感によるものではないかと予感している。

 とりあえず続き。
 「カンガルー日和」に続いて、さて、もう一時限。
 新学期2回目の授業でいよいよ「こころ」かと思いきや、回り道をすることにする。野球部が試合で、各クラスに公欠者が出てしまう。「こころ」の第一回は可能な限り全員に受けさせたい。そこでもうひとつ、一時限の読み切りを扱う。須賀敦子の「塩一トンの読書」。
 須賀敦子は「となり町の山車のように」のように複雑な陰影を持った随筆も別の教科書には載っているのだが、「塩一トン」はいたってシンプルなメッセージを読み取ればおしまい、といった文章に見えて、年度当初には扱うつもりがなかった。だが、一回読み切りの文章を選ぶために読み返して、俄かに、このタイミングで読むことの意義に気づいたのだった。
 「シンプルなメッセージ」とは言ってみれば「人は簡単に理解できるものではなく、長い間じっくりつきあってみなければわからない。本もまた同じである。」といったような、国語教科書に似つかわしいお説教じみた教訓である。もちろん須賀本人がそれを言うときには、したり顔で教訓を垂れる教師としてではなく、読書人としての実感を素直に語っているだけではある。もちろんとりあえずこの文章から読み取るべきメッセージを真っ当に読み取れる必要性はあり、授業では真っ当にそれを生徒に要求すればいいのだ(もちろんそれを「教える」ことなど何ら意味のあることではなく、あくまで「生徒に読み取ることを要求する」ことにのみ意味があるだけだ)。
 それでもその過程も、果実としての教訓も、それほど魅力的なものとは思えない。ただ、問いの形としていくらか面白いと自分ながら思えたのは「この文章で前半の5分の2と後半の5分の3の内容が何についてであるかを、それぞれ漢字一字の一語で言え。」という問いだった。
 こういう、シンプルな答えを要求するような問いで、その答えを考えることで文章についての認識がクリアになるような問いを思いついたときは嬉しい。生徒はすぐにどちらかが「塩」だろうと考えるのだが、それは「前半・後半」というような並列の片方に適用すべきキーワードではない、という感覚が、全体の趣旨をバランスよく把握する読解に根拠づけられる時、訂正されなければならない。上にまとめた「メッセージ」で明らかなように「人」と「本」である。これが提出されれば「メッセージ」はそこから容易にまとめられる。こちらが「教える」必要などない。
 だがここが目的地ではない。
 この文章で「面白い」ところはどこか? 上のような「メッセージ」に、なるほどと頷くことが「面白い」と思うことなのだと感ずる人は、そもそもそうした「メッセージ」の内容にあらためて何か目を見開かれたとかいうことではなく、そもそもそうした「メッセージ」を誰かが言ってくれることを予め求めていた人なのだろう。だが私自身はそれには当たらなかった。では何か?
 たとえば最終章に
 ずっと以前に読んで、こうだと思っていた本を読み返してみて、前に読んだ時とはすっかり印象が違って、それがなんともうれしいことがある。それは、年月のうちに、読み手自身が変わるからで、子どもの時にはけんかしたり、相手に無関心だったりしたのに、大人になってから、何かのきっかけで、深い親しみを持つようになる友人に似ている。
といった一節がある。ここで言っていること自体には、そりゃそういうこともあるだろう、くらいの感慨しか持てないのだが、この文章を生徒が授業で読むことには、いくぶん不思議な感慨を抱いてもいい。国語の授業という限定があって、去年読んだ文章をなんか連想しない? といった誘い水を差すと、どこのクラスにも気づく者がいる。一年の時の教科書に載っていた角田光代の「旅する本」は、まさしくそういうことを言っていた小説だったのだ。誰かがそう指摘すると、他の者も、ああ、なるほどそういえば、という反応をする。ちょっと面白い。
 それだけではない。
 ある本「についての」知識を、いつの間にか「実際に読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、「それについての知識」を手っ取り早く入手することで、お茶を濁しすぎているのではないか。
は、松浦寿輝の「『映像体験』の現在」
 今日のような映像の氾濫状態に慣れてしまうと、自分がその場で実際に体験したわけではない出来事を、映像を見ただけであたかも全部わかってしまったかのように考えがちだということがある。
を連想させるし、
 (小説を)すじだけで語ってしまったら、作者が実際に力を入れたところを、きれいに無視するのだから、ずいぶん貧弱な楽しみしか味わえないだろう。
は、茂木健一郎の「『見る』」
 しかし、その「要約」だけでは、「モナ・リザ」の前に立つという体験を再現することはできない。…絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。
を連想させる。これらを生徒はちゃんと思い出して指摘する。
 別の時期に別の筆者が別の関心で別の主題について(文章のジャンルさえ異なって)書き留めた思考が、奇妙な共通点を持っている。両者が結びついたとき、わかったつもりになっていたそれぞれの文章が言っているのはそういうことか、とふと腑に落ちる。面白い。
 そしてまた、これから「こころ」を読むにあたって、「塩一トンの読書」が言っていることは、まさしく心に留めておいてほしいことなのだ。世間で言われている「こころ」についての「知識」や「すじ」でわかったつもりにならずに、何度でも本文を読み返してほしい。それらはわかったつもりになっていた「こころ」とどれほど違った顔を見せることか。

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